私の札幌国際芸術祭 雑感

札幌国際芸術祭についての極私的な感想。
批評家の藤田直哉氏や黒瀬陽平氏のツイッターでの発言に対し、音楽側(運営と大友良英氏周辺の方々)がものすごい勢いで反発している。一部の人々とはいえ芸術の一ジャンルを担っている音楽と美術がこんなに反発しあっていることにまず驚いた。
その内容について詳細を述べるのは面倒なのでやらない。
私自身は音楽、美術共に愛好するただの素人(最近バンドを始めたがブッキングなので収益はマイナス)で大友良英氏の演奏や展示はこの10年で50回近くは行ってると思う。カオスラウンジの展示も破滅ラウンジに始まり昨年の瀬戸内芸術祭にも行き、東浩紀氏のニコ生でもよく拝見している。要はどちらのファンでもある。これから素人だということを盾に好き放題書く。見当違い甚だしく見苦しいかもしれないが私は素人だ。

この両者の反発を見て前から思っていたことでもあるのだが、音楽界は批評を求めていない。そして批判にも慣れていない。そして、大友氏ってすごく愛されてるんだなってこと。
最後のを除いて私はこの状態をあまりよく思えていない。批評家と芸術家の持ちつ持たれつの関係が芸術を刷新していくものだと思っているから。音楽を軸に美術を歯に衣着せぬ批評できるような人の不在も痛い。大里俊晴氏だったら今回の芸術祭にどのような切り込みを入れたのだろうかと夢想する。畠中実氏の見解も大いに気になるところではあるが。

私が参加したのは3日間。
行った時期が悪く参加できたイベントはテニスコーツ大友良英、高橋幾郎のライブのみ。残念ながら休館日が重なったり予定が合わず、よく話題に上がる札幌市資料館と三岸好太郎美術館には行けていない。それ以外の場は結構回れたと思っていたが取りこぼしだらけだったかもしれない。
初めての札幌で土地柄をよく知らなかったこともあり瀬戸内国際芸術祭のような街全体がお祭りのイベントだと期待したら拍子抜けしてしまった。国外国内問わず観光客が多く、着いたのが夜だったこともあり騒がしく色めきだち芸術祭の雰囲気は一切なかった。一人で見知らぬ土地に着いた私は早くも居心地の悪さを感じた。
着いてすぐ向かったのが上記のイベントだったわけだが、いい意味でどこに行っても変わらないテニスコーツのライブで、大好きな高橋幾郎氏のドラムを久々に見れたのも嬉しかった。ただ歌やMCでゲージツゲージツとネタにし嘲笑しているような雰囲気を感じ、関係者の多さや場所のわかりづらさなど、クローズドな印象を受け、また私は居心地の悪さを感じた。そもそも私はお祭りに行くのは好きでも参加するのは心底苦手な人間なので音楽特有のノリを共有するということが苦手なのかもしれないと今更ながら気づいた。
おそらく芸術という言葉に含意されるアカデミックな部分を笑っている。高尚で堅苦しいものだと思っているのかもしれない。批判に対してもアレルギー的な反発がある。私は批評における批判とは否定的でネガティブなものではなく、ポジティブに帰結するものであり、研究者や批評家が歴史、文脈に基づいた知見から新たな断面を見せてくれることだと思っている。一般の人々が様々な解釈をし自由に楽しんでいいことはもちろんだが、それと等価に存在する一個人でもある批評家の見解を頭ごなしに否定するのはどうだろうか。少なくとも誤解があるなら丁寧に説明すればいい。一素人からすると異なる意見がぶつかることで議論が盛り上がり止揚する様を見て見識を深めたいと思っている。

地域アートとして見たらだめだという意見を見た。札幌という名を掲げた名称からしてその意見は厳しいのではないかと思った。街中に散らばった展示を巡りながらその街の空気を感じ、その過程について考え、その作品をその場でやる意味を感じ取ろうとした。サイトスペシフィックなものを求めてしまったのも事実ではある。でも創る側ももちろんそうだろう。それは即興演奏にしろ展示にしろその場について無意識的にであれ考え反映させていることは必然的なことでは無いのだろうか。少なくとも私はライブにおいて演奏者としても鑑賞者としてもいつもその場のことを考えている。特定の地域で芸術祭をやる以上、否応無く意味は生まれるし、その問題に無自覚なのはどうなのだろうか。余談ではあるが大漁居酒屋てっちゃんで隣に座ったおじいさんが、観光客ばかりになってしまったと寂しそうに呟いていて、観光客としてそこにいることに恐縮しながらもその姿にようやく生活を見た気がした。
作家の中にはその土地でしかできないこと、場の記憶を喚起させるものなど所謂地域アート的な特性を活かした作品も散見できた。梅田哲也氏や毛利悠子氏の作品は特にそう感じた。
今回の作品で私が最も感動したのは梅田哲也氏のりんごだ。水滴がおちる音に耳をすます。集中すればするほどその空間自体に響く音の複雑な響きに気づく。その場に座り水滴の落ちる先をじーっと見つめていた。しばらくすると他の鑑賞者の階段を登る足音が聞こえる。普段意識しない足音が騒音のように感じる。登り終え静かになったかと思うと他の鑑賞者が入ってきて更に騒がしくなる。聴きたい音が聴けずもどかしくなった。そこで気がついた。自分も他の鑑賞者と同じようにある物音を無自覚に踏みにじり、同じような気持ちにさせていたのかもしれないということ。水滴に開かれた耳は環境へと向かいそこに存在した他者と私の関係に向かった。音を出さないことで環境音の豊かさを提示したジョン・ケージ4分33秒の先にあるものだと思った。平易に言えば他者に耳を開くことで思いやりが生まれた。私はこの作品にケージを透かしてみた。自分が感じたことは梅田氏の意図から遠く外れたものかもしれない。未だにケージ=4分33秒で論を立てることの安易さも自覚している。
今回の芸術祭はサウンドアートの文脈としてみるのはわかっていないと書いた記述も見た。上記のようにサウンドアートとして見てしまった自分の浅薄さを恥じるばかりではあるが、文脈を知らない子供の方が楽しめると言われると自分はそもそも行くべきではなかったのかもしれないとも思う。

全部の作品イベントには行けていないが様々な作品に触れ様々なことを思った。正直にいうと黒瀬氏が指摘したことと同じように感じてしまった部分もあり、あまり楽しめなかった。でもその感想自体が歩んだ道筋と思考の軌跡であり、私の星座を描いている。その不恰好さ自体を緩やかに肯定してくれるものが今回の芸術祭なのだと思っていた。
しかし、私は何もわかっていなかったのもかもしれない。そう言われればそんな気もするし、そんなこと言われると悔しいので反発したくなる幼い自分を恥るばかりだが、だからこそ普段文章を書かない私がこんな駄文をダラダラと書き連ねてしまったのだ。

最後に。腑に落ちない気持ちでツイッターの感想を眺めていると、まずはステートメントを読めというのをみた。なので音楽と美術のあいだを買おうとしたら3000円を超えていて、現在失業中の身としてはそれすらも買うことに躊躇してしまった。なので以前読んだものの朧げになっていた後々田寿徳氏の批評をネットで見つけて読むことができた。音楽家が美術館で展示を行う上で苦心をしてきたことが多少ながらわかった。誤解を多く受けてきたことも。しかし、門外漢の私からすると現在のツイッターの動向を見ていると多勢に無勢で普段は対話だ外交だと言っている人々が異なる見方をした人を排除しているように見える。しかし、これも何もわかっていないのかもしれない。

私は一つの作品を見ながら、見終えるということがないことをしり、諦めて次の作品へと向かう。

もっと見ろと言われればもっと見ればよかったと後悔するしかない。

なんでみんなこんなに怒っているのだろう。

わからないことばかりだが、北海道にいようと東京にいようと居心地が悪いことだけは確かだ。